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2010.11.20
【朝日新聞】おんなの一生 『火祭』

おんなの一生 石野 小よし
『火祭』 S41.7.5 朝日新聞掲載
子ども心に強く残る 山頂につづく炎の行列


明治33年4月、小学校へ。もめんのかすりにわらぞうり。教科書や帳面は風呂敷に包んだ。「おみっちゃん——仲良しになった方でございます。貧しいろくろ師と違うて、大きな焼物問屋のお嬢ちゃんで・・・。先方の親ごさんも私が気にいったとみえて、よう遊ばせてくれはりました」
「遊びいうても、ままごとや人形やこんめしや・・・。こんめしとはおじゃみのことでございますよ。母にきれいな布をもらって、砂や豆を入れて、自分でこしらえました。おみっちゃんと競争でつくって、お互いに宝物のように大事にしあったものでございます。ままごとは縁先にござを敷いて、売物のタヌキの焼物をお客様に見立て、大笑いしたこと、覚えとります。ままごとのお茶わんやお皿は、商売柄、家にいくらでもころがっておりましたよ」
「いまも忘れん先生に、北川たかとおっしゃる方がおられました。学校へみえたのは、私の3年生ごろやったでしょうか。毎日、人力車で通われとりました。真っ黒な髪を粋な揚巻に結われて、べべ(着物)も、私らいなかもんは見たこともないようなきれいなのをお召しになって・・・私もおみっちゃんも、かわいがってもらいました。それが自慢で・・・」

好きだった読み方
「勉強?算術(算数)よりも読み方(国語)のほうがすきでございました。習字も得意で、母が三重丸のついたのを、家の仏間にようけはってくれていました。ある日、近所の”ヒゲのおじちゃん”が来て、こりゃ、うまいのう——と、私の頭をなでてくれはりました」
”ひげのおじちゃん”とは、後に彼女が嫁ぐことになる石野家のおじさんである。狭い町のことだ。人生の複雑な糸は、早くもお下げ髪の彼女にもからみはじめていたのである。
さて、このころ、子どもたちの楽しみは、年に何回かある祭であった。
「向こうはち巻きの若い衆が、おみこしを担いで、ワッショイ・ワッショイ。おみこしを担ぎ込まれた家では、お酒を用意してふるまいます。おみこしには大中小と3つございまして、細い道にも小さなのが繰込んでまいりました。このごろは担ぐ人も少のうなって、景気づけには、お酒よりお金のほうがええ、といいはるそうで」

おいしいサバずし
「祭には、どこのお家もごっつおう(ごちそう)をつくって、親類をよんだりよばれたり・・・・・・1番おいしかったのは、サバずしでございましたよ。塩サバを三枚におろして、すしご飯の上におき、竹の皮でしばって、一日おいたものです。ぎょうさん(たくさん)作って、遠方のお客様には、おみやげにもって帰ってもらうのが習わしでした」
この地方では今もサバずしづくりが盛ん。琵琶湖に近いとはいえ、新しい海の魚は少ないので、何かにつけて塩サバが使われる。「祭のあと、2、3日は何も売れまへん。町の人は当分、あまったサバずし、食べてはりまんねや」と、ある魚屋さん。ただし、近ごろはサバずしづくりも、ちょっと変った。竹の皮が少なくなったので、代わりに新聞紙でくるんだりする。

焼物つくりの神様
祭の中で小よしさんの胸に強く残るのは夏の火祭である。
「焼物つくりに、火はこの上ない大事なもので・・・。この火をおまつりするのが火祭でございます。神様は町はずれの愛宕山というこんもりした小山におられまして、夜八時ごろ、男衆が1間(約1.8メートル)から2間もあるタイマツ(松明)に火ィつけて、登るのです。タイマツは二百本もございましょうか。途中で火が消えたら”ゲンが悪い”いうて、二人ぐらいでかつぎます。そして頂上のお社でお参りをすますと、火がついたまま、かついで下ります」
「女の子はあぶない、いうて行かせてまらえません。やみの夜、ヘビの舌のような炎が、ながァい行列になって登ってゆく様は、こわいようでございました。お参りできなんだ大人たちは、この火に向かってかしわ手をうっておがんだものでございます。火祭はいまも続いとりますが、大阪や京都からたくさん見物にみえて、見せ物みたいになってしまいました」