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2011.03.01
【朝日新聞】おんなの一生 『嫁入り』

おんなの一生 石野 子よし
『嫁入り』 S.41.7.11 朝日新聞記載
格式ある焼き屋へ まかせてもらえぬ財布


明治四十四年五月、嫁入りした。相手は石野里三さんといった。
「縁談はこの年の正月、やぶ入りで帰った時、母から聞きました。石野家は古い焼き屋で、ご先祖がつくった
“四つ耳・腰白のつぼ”(第一回参照)や、文化七年(1810年)朝鮮の使節をもてなすのに、幕府の注文で作った
食器などが伝わっております。私の家とは近うございましたが、くらべものにはならぬ格式でございます」

娘の養子の後添に
「男の子がおりませんで、ひとり娘に養子をもらわれていました。ところが娘さんが亡くなり、その後添
に私を・・・ということでございます。里三は信楽でも朝宮いうところの百姓さんの出で、会うたことも
ございません。私は何とのう嫁入りするなら京都で、と考えとりました。けれど、娘のぶんざいで縁談
に反対できません。それに石野家は、子供の時分、かわいがってもろた“ひげのおじちゃん”(第二回
参照)のお家なので、いってもええような気もしましたし・・・」
三三九度の杯は、石野家の仏壇の前でかわした。手入れの行届いた庭に、真っ赤なツツジが咲いていた。
続いて、お祝いの宴。色直しの着物にきかえて、彼女はお酒をついで回る。
「この家には里三と父と母と父の兄の四人、私を入れて五人でございます。父の兄が“ひげのおじちゃん”
でした。この人は独り身で離れに、父と母は奥の間に、私ら夫婦は四畳半の納戸(なんど)でございます。
その夜、里三は“わしは養子で、ここの親とはなさん仲や。お前も苦労するやろうけど、二人で辛抱し
合おう”と、いうてくれました」
父も母も夫も焼物づくり。彼女はその手伝い。間水(けんずい)つくりも、大切な仕事であった。
「間水いうのは、おやつでございますが、信楽では茶粥のことをいいます。朝、大きなおかまに茶粥
をたいて、冷やご飯にかけて食べ、十時と昼からの三時にもいただきます。窯(かま)をたいている時は
“親の死に目にも会えん”いうぐらいなので、茶粥とお漬物をさげ箱に入れて、もっていきます。これも
嫁の役目で・・・」

気性激しかった母
「母は床屋の娘とかきとります。好き・嫌いの激しいお方で、怒ると歯ぎしりをされました。そやさかい、
始めはこおうて(こわくて)下手に出て、怒らさんように気ィ使いました。奉公してたので、働くのはなれてます。
台所も座敷も、ピカピカに磨き上げました。さすがの母も、“子よし、そう働かんでもええ、ちょっと
休みいな”と、いうてくれはるようになりました」
「けれど、お金の出し入れは自由になりませんなんだ。このごろでも、お百姓の家ではまだ嫁に財布を
渡さん、いうて困ってはるそうですが、昔はどの家もそうで・・・そやさかい、子供ができたら、ちょっと
したお菓子、買うのにも不自由しました。月々、お金がどのくらいはいってくるのか、何ぼ出てゆくのか、
一切分かりませんなんだ」

お化粧も一度だけ
「おかずひとつ買うのも、母からお金もろて・・・そして帰ってきたら、おつりと品物をみんな並べて
“報告”します。もし、ややこしかったら“はがいたらし”いうて癪(シャク)起しはります。母は癪
持ちだったのでございますよ」
もちろん、自分の化粧品を買うことはできなかった。
「私、お化粧らしいことをしたのは、嫁入りの時だけ。それから後にも先にも、紅、おしろいをつけた
ことはございません。女でございます、そりゃ、やってみたい時もありましたが、どうにもなりません。
嫁入りの時、持ってきた紅、おしろいは、固うなって使えんようになり、捨ててしまいましたよ」
それにしても、いまの彼女のツルリとした肌はどうだ。素肌美ということがよくいわれるが、それは
化粧品による手入れよりも、生まれつきなのだろうか—と考えさせるほどである。