おんなの一生 石野 子よし
『買出し』 S.41.7.14 朝日新聞記載
物々交換で食料得る 焼物をかついで遠方へ
手りゅう弾つくり
日韓事変の起こったのが昭和十二年七月。子よしさんは四十四歳であった。その前年、京都で
女中奉公していた次女きくさんは、同じ信楽の窯元へ嫁入りした。続いて十四年にこれも大阪
で奉公していた三女一子さんがゴールイン。相手は軍人、特務総長であった。二人とも見合結婚。
やがて太平洋戦争。次男伊三夫さんはアメリカへ宣戦が布告された十六年十二月、赤紙がきて戦地
へ。二年後三男明さんも入隊する。
「戦争が始まったころは、まだ火鉢をつくっとりました。日本人のいるところ、信楽の火鉢あり
——といわれたそうでございます。昭和九年ごろから満州やシナへどんどん輸出されまして、
戦地で青と藍(あい)のまじった信楽火鉢をご覧になった兵隊さんも多いと存じます」
「そやけど、焼物はしょせん、平和なもんでございます。戦争が激しゅうなると、火鉢や花瓶
や茶碗なんか、焼いたらあかんようになって・・・とうとう町の焼き屋が五、六軒ずつ集まって
有限会社をこしらえ、地雷や手りゅう弾をつくることになりましたよ」
「作り方は火鉢と同じでございます。石膏(せっこう)で型をつくり、土を入れて焼きます。兵隊
にいかん職人は、徴用でよそへいっとりますので、ようけ学生さんが来て、こんな仕事を手伝う
ていました」
主人もおとなしく
日ましにつのる食料不足—。「両親はもう亡くなっとりましたが、食べ盛りの子供が三人おりました。
田畑は手放してございませんし、小さな百姓さんが多いので、食べ物を分けてくれる家もありません。
そこで買出しでございます」
「倉庫のすみに積んだった手あぶりや火鉢をかついで、伊勢や鈴鹿、亀山あたりへ。近回りは
焼物なんか珍しゅうないので、なるだけ遠いところへ出かけました。小さい手あぶり二つでサツマイモ
五貫(約15キロ)も交換してくれはって“アリャ、うれしや”と思うたこともありました」
「この頃は、主人もさすがにおとなしゅうなりまして・・・買出しにいく私のキップを買うのに、
信楽駅まで並びに行ったり、おいもを背負うて帰ってきたら“すまんなァ、おれがお腹ふくらませる
のも、お前のおかげや”というたり・・・」
こんな生活の間にも四男甲子男(きしお)さんに徴用令がきて、岐阜の軍需工場へ。五男経雄(つねお)
さんは町の防空監視隊員となって、毎晩、町はずれの愛宕山の監視所に立つ。もはや、名物の
火祭の火も消えていた。
「経雄は目のええ子でしたが、ある夜、信楽の空を飛ぶB29の灯を初めて見つけたいうて、警防
団長さんからえらいお褒めに預かって・・・」
三男は無事で帰る
東京や大阪が空襲をうけるようになる。地雷や手りゅう弾を作ってる信楽にも、爆弾が落ちる
というデマがとんで、子よしさん夫婦はキモを冷やしたりする。そして終戦。
「昨日までは兵器の地雷や手りゅう弾が、おもちゃのように転がっておりました。窯は荒れ、機械
ろくろはさびつき、もう信楽もおしまいや、と思いました。そのうち復員で、兵隊さんが戻って
きます。けど、次男も三男も、音さたございません。次男はビルマへ行っとりまっした。お帰り
になった方に聞いても、ご存じありませんで、覚悟してましたら、公報がはいりました。インパール
作戦で戦死していたのでございます」
「三男は無事戻ってまいりました。忘れもしません、二十一年六月十日。けど、私が買出しに
行ってた留守中で。その夜はお祝の会・・・と申しましても、サツマシモのまじったご飯に菜っ葉
の煮付けでございました」
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